今回のインタビューは、東京慈恵会医科大学教授 佐藤紀子先生にお伺いしました。佐藤先生は看護師として働きながら看護の制度に疑問を持ち、看護師がどのように豊かな人生をおくる可能性があるのかを研究する「看護職生涯発達学」を立ち上げました。

看護師を目指す

私は1974年に看護師になりました。2002年の法改正までは看護婦と呼ばれていました。私がなぜ看護師になったのか、という問いに応えることは難しく、色々な経験を積むうちに書き換えられていくものだと思いますが、ひとつのきっかけはナイチンゲールでした。

子供の頃本を読むのが好きだったのですが、ナイチンゲールの伝記を読んだ時に感動しました。裕福な生まれでありながら、貧しい人たちに薬や食料を届けていた話などを読んで、看護師って良いなと思いました。

私は札幌生まれでしたが、父の転勤で広島で青春時代を過ごしました。その当時は広島には原爆の爪痕が残っていました。原爆スラムというスラム街があったり、原爆に耐え抜いたという楠があったり、町中にケロイドのある人が歩いていたり、といった光景に衝撃を受けました。

高度経済成長期ということもあって、裕福とは言えないながらも何不自由なく育った私は、ナイチンゲールのように何かできるのではないかと思い、看護師を志しました。そして、東京都立広尾高等看護学院(当時)に入学しました。

この看護学院での3年間は、沖縄返還など社会的な変化が大きく、社会問題に大きな関心を持ちながら過ごしました。これが私の価値観を形成し、とても貴重な経験となりました。

卒業後、そのまま広尾病院に就職することにしました。当時はまだ幼くて、大人の患者を見るのに不安があり、小児科に行きたいと思っていました。そこで看護部長を尋ね、どうしても小児科で働きたいとお願いしました。看護部長は一人の希望だけを聞くわけにはいかない、と言うので、寮にいた同級生たちに、第一志望から第三志望までアンケートを取り看護部長に提出しました。そうしたら、ほとんどが希望通りの配置につくことができ、私も小児科に勤めることができました。

こうして看護職に就きましたが、母が専業主婦だったこともあり、結婚したらこの仕事は辞めるものだと思っていました。実際、働いている人の多くは独身で、子育てをしながら働いている人はほとんどいませんでした。

私も夫と結婚してから、2年間専業主婦をしていました。しかし、仕事をしている同級生が生き生きとしているのをみて羨ましいと思いました。そこで、子育ては両親に手伝ってもらい、託児施設のある近所の小さな病院で働きました。それからは仕事を辞めようとは思わずに今に至ります。

若い准看護師との出会い

その病院で一人の准看護師と出会いました。とても丁寧に仕事ができる人で、知識もある人でした。その方は15歳のときから開業医に住み込みで働き、子供たちにお弁当を作ったりと家政婦のようなことをしながら准看護師の学校に通い、准看護師の資格を取ったようです。

当時旧優生保護法があって、毎日20人くらいの女性の方が中絶の手術を受けに来ていました。買い物かごを持って中絶手術を受けに来て、目が覚めたらそのまま買い物に行くという光景が日常的にあったのです。一度その介助をしたのですが、ショックを受けました。それを看護婦長に話すと、もうこの介助の仕事はしなくて良いと言われ、私は後ろめたさを覚えながらも楽になりましたが、准看護師の方はずっとこの仕事を続けていました。

なぜこれほどの苦労をしなければ准看護師になれない人がいるのか。なぜ看護師と准看護師と二つの制度があるのか。なぜ人を助けるはずの看護師が中絶の介助をするのか。様々な疑問が湧き、このままではいけないと思い、この病院を辞めました。その後日本看護協会が設立している看護教員養成の学校を受験しました。

なお、この准看護師さんから5年ほど前に連絡がありました。私が医師に点滴の量が少ないという指摘をしていたのを見て、このような指摘ができる看護師がいるということに衝撃を受けたそうです。そして、彼女もその後一念発起して看護師の資格を取ったということでした。私の仕事を見ていてくれた人がいるということ、そしてそれが彼女の人生に一石を投じるきっかけになったことを嬉しく思っています。

ガン患者への告知をめぐり

その後、看護教員になった私は30歳のときに、自分の臨床力のなさに気づき病院の看護師に転職しました。小児科の主任として仕事をしていましたが、ローテーションで内科に行ったとき、がん患者の看護をする機会がありました。当時はがん患者に絶対にがんだと言わない、というルールがありました。がんだと知ると患者が絶望すると信じられていたのです。しかし私は、がん患者自身ががんであることを知らずに闘病に専念することはできないと思っていました。同僚との飲み会でも、学会でも、私はがん患者にはがんであることを伝えるべきだ、そしてもし私ががんになったらそのときは知らせて欲しいと言っていました。

その話を聞いていた内科の医師に

「これから肺がんの患者に告知をしようと思っている。佐藤さんも一緒に居てくれませんか」

と依頼され、その場に同席することにしました。

医者は非常に緊張していましたが、しっかり患者と向き合い、今どのような病状なのか、これからどんな治療をするのか、治る可能性はどのくらいなのか、という話をしました。

患者はまだ50代と若かったのですが、

「わかりました。教えていただきありがとうございます。明日外泊して家族にこれからのことを話してもよいですか」

と落ち着いて答えました。当時は外泊も例外的なことでしたが、それも許可することにしました。

この告知は病棟にとっては大事件で、患者がかわいそうという声や、何かあったらどうするんだという声があり、私と看護主任は夜勤ではありませんでしたが、泊まることにしました。

私は一睡もできませんでしたが、朝起きて患者の元に行くと「よく眠れました」と言って、家族の元に話をしに行き、闘病の準備を整えました。

このようなエピソードもあり、進学した大学院では看護管理学を専攻しましたが、副専攻にがん看護学を選択しました。

看護職生涯発達学を設立

大学院修士課程を修了後、東京女子医科大学看護短期大学の准教授となりました。短期大学が学部になる際、博士号が必要とのことで、40代で働きながら博士課程にいくことにしました。子供も大きくなっていたので、職場の近くにマンションを借りて、朝から晩まで勉強と研究をしていました。

臨床という言葉は「見知らぬ人同士が出会う場所」という意味があります。患者と看護師という見知らぬ人が出会い、他の人には見えない場所でお互いのことを知り、看護師は安心と信頼を築いていかなければいけません。それをどのように言語化していくか、ということが主な研究テーマでした。この研究は今でも続けています。

そして、博士号を取り、東京女子医大の教授になったとき、学長に「何をやりたいのか」と聞かれ「看護師のキャリアの研究をしたい」と言いました。しかし、キャリアでは学問にならないので「~学」というタイトルにするようにと言われ、看護学に造詣のある専門家に相談したり、本屋や図書館に通い詰めて「看護職生涯発達学」という専門領域を立ち上げました。

看護職に就く人にもそれぞれのライフイベントがあり、やりたいことがあります。また、現在では男性の看護師も増えてきて、個性に応じて活躍の場があります。生涯を通して、どのように看護職という仕事や自分自身と向き合っていくのか、ということが研究テーマで、なかなかやりがいのある研究だと思っています。

これは東京女子医科大学独自の研究領域で一般的な領域ではありません。しかし自分自身が看護師としての壁にぶつかったり、自分自身の疑問や問題を整理したい、という人たちの役に立てば嬉しいと思っています。

潜在看護師に向けてのメッセージ

私は潜在看護師という言葉は好きではありませんが、今は看護師の仕事をしていない方には、本当に戻ってきて欲しいと思っています。

昔は看護師といえば病院で働く仕事でしたが、今は地域包括ケアの時代になっています。地域の中での訪問看護、デイサービスの仕事など、いろいろなところで働けるようになりました。大きな変化は「医師の指示のもとで仕事をする」という法律上のハードルが低くなり、自分やチームの人との協働をとおして働くことができるようになったことがあると思います。

しかし、10年以上看護職から離れた方にとっては戻るのに不安があると思いますし、実際に看護は大きく変わりました。例えば今では在宅看護論が看護教育の必修科目ですが、私の頃にはそんな言葉さえありませんでした。

一方で、昔は情報を得るといえば看護雑誌を購読するしかありませんでしたが、今はたくさんのオンライン研修があり、インターネットに情報を得るツールがたくさんあります。これを活用しましょう。

また都道府県に看護協会という職能団体があり、研修や人材募集の情報がたくさんあります。ホームページを見ればさまざまな情報がありますから、研修の案内があればとりあえずやってみるというのが大事だと思います。

そして、勇気を出して、実際に病院や募集先に行ってみましょう。丁寧なオリエンテーションや研修をしてもらえたり、インターンシップという形で経験を積むことができます。特に訪問看護ステーションはいつも人を探していますから、行ってみることが大事です。

オンラインの情報を元に、看護職に戻るための第一歩を踏み出してみましょう。

人生100年時代ですから、50代でも看護の仕事を始めるのに遅いということはありません。実際に私の周りにも40代や50代で看護師の資格を取った方はたくさんいます。

長い人生を生きることができるようになりましたから、いまからでも時間はたくさんあるはずです。看護師は誰かの役に立てる、自分の力を発揮できる職業だと思います。

看護の知識として何が一番大切なのかというと目の前にいる人が何に困っていて、何が必要なのかを理解するコミュニケーションの力です。相手を知ることから看護が始まります。トライアンドエラーを繰り返し、目の前の人に関心を持って接していくことが大切です。

一つエピソードを紹介します。

訪問看護師から聞いた話です。20年前からずっと同じポータブルトイレを使っている方がいました。買い換えた方が良いよ、と新しいポータブルトイレを紹介したり、無償で交換できるよ、という話をしても、一向に交換しようとしませんでした。

ベテランの看護師が訪問したとき、その患者さんの話をじっくり聞くと、今は亡くなった伴侶が20年前に買ってくれたもので、どうしても買い換えられないということでした。そこで、古いポータブルトイレをどのように快適に使って行くかを工夫していくという形で考えていくことになりました。このように人に合わせて考えていくことが大切です。

看護職は女性が多く、女性への支援や理解が進んでいる分野で、続けやすい職業です。また、男性の方にとっても、女性が多い中で筋力があるのは貴重で、活躍しやすい職業です。ぜひ看護職を続けながら、自分の人生を楽しむ生き方をしてください。