今回のインタビューは、大阪信愛学院大学副学長・看護学部長の遠藤俊子先生にお話を伺いました。遠藤先生は山梨医科大学医学部附属病院、京都橘大学大学院CNS(母性看護)・看護学研究科、関西国際大学大学院博士課程の開設や、周産期医療システムのおける院内助産の普及など様々な創設にチャレンジし、日本の看護と周産期医療を支えてきました。

遠藤先生のご経歴を教えてください

私は小中学生の頃、養護の先生と仲良しでした。養護の先生の働きを近くで見ていて、私もいずれ養護教員になりたいと思っていました。私は看護師になりたいというより教員になりたかったのですが、養護教員になるためにはどうも看護の資格があったほうが良いということがわかってきました。

当時看護大学は全国に4校しかなかったので、広尾にある都立第一高等看護学院(現広尾看護専門学校)に進みました。CURAの第2回インタビューの佐藤先生は、同校で私の1歳違いの後輩にあたり、いまでも交流を続けています。

20代:ハイリスク妊娠の看護実践に邁進し、後の研究の芽を育てた

専門学校卒業後は、子どもの看護をしたいと思っていたので、国立病院の小児病院に就職しました。当時はNICU(新生児集中治療管理室)はなく、未熟児病棟で未熟児も看ることになりました。どうして早産になってしまうのか、小さく生まれた子どものご両親の苦労を間近で見ることで、妊娠期の看護を充実させたいと思うようになりました。

そして、都立公衆衛生看護学院助産学科で1年学び、助産師の資格を取りました。その後は都立病院で助産師として復職しました。

3年ほど臨床経験を積んだのち、教員養成コースで学ぶ機会があり、修了後、当時はまだ看護専門学校だった北里大学の教員になりました。

このときから研究を始めました。研究内容はハイリスク妊娠のケアです。ハイリスクであっても重症化しないように、あるいは子どもに何かあっても家族として迎え入れて育てていけるような、家族看護を指向しました。この間、自分自身も結婚・出産をしたこともプラスだったと思えます。

30代:山梨医科大学医学部附属病院で周産期病棟の開設

昭和50年代は1県1医大構想という、医学部を各県に1つ作ろうという動きがありました。そして、この計画の最後のほうで山梨県に山梨医科大学(現山梨大学医学部)が設置されます。

この山梨医科大学に異動が決定していた北里大学の副看護部長から「いつも臨床をやりたいと言っているのだから、山梨に来ない?」とお誘いを受け、私も山梨医科大学で産科病棟師長を務めることになりました。こうして、まだ臨床経験が3年から10年ほどの新人看護師たちと共に、大学病院看護部の設立に関わっていくことになります。

私も含め、医師も助産師も看護師もみな新人ばかりで、自分のやりたいように病棟を作り上げることができました。私は周産期医療が専門でしたが、同時に病院の中間管理として、看護部組織の管理運営、看護職のキャリア育成や新人教育をどのようにするのか、というところも経験することができました。

30代の臨床では、当時はとにかく実践を言語化することを心掛け、論文をたくさん書きました。勤務地である甲府から清里が近かったので、昼間はスキーをして遊び、夜に抄読会や看護を語る、書くというような論文合宿を2カ月に1回程開催しました。その時のメンバーは10人程が現在も大学教授になっており、准教授や講師になった方も含めると20人くらいは教育畑に進んでいます。大学院開設した際には、入学してくださった方も何人もいます。一緒に育ってきた大切な仲間たちです。

40代以降:教育活動をしながら立ち上げを続ける

平成4(1992)年に、看護師等人材確保法ができ、全国に看護大学や看護短期大学がたくさん設立され、それとともに教員の人材不足という問題も出てきました。これをきっかけに教育現場に行くことになりました。これも大学病院の設置に関わったため、若い看護師と一緒に看護を作り上げていくことが出来た経験から、教育への関心が高まっていたという実感があります。

1995年からCNS(専門看護師)という制度ができました。これは実践を積んだ看護師が管理に行くのではなく、臨床における高度な看護実践をするために、直接ケアはもとより看護師を支え、チーム医療を支える制度です。各分野があり、私は母性看護のCNS育成に携わりました。

その流れで大先達である前原澄子先生に京都橘大学でCNSの立ち上げをしてほしいと言われ、京都に移りました。私学での大学運営は初めての経験で、指示命令系統が短く、また成果がどんどん出るのがエキサイティングでした。

京都橘大学で10年間の教育を経て、今度は関西国際大学で大学院の博士課程に関わって欲しいと依頼がありました。

これで終わりにしようと思ったら、今度は大阪信愛学院大学に呼ばれ、今年の4月から副学長・学部長を務めることになりました。看護の出発点である学部教育をもう一回、初心に戻ってできる機会を頂きました。

とにかく創設を続けてきましたね。

先生の専門に関してお話を聞かせてください

もともと戦後の日本の出産は、助産師(産婆)による自宅分娩という形が多かったのですが、昭和35(1960)年に病院分娩と自宅分娩の割合が逆転しました。そして現在は99%以上が病院で出産しています。

本来出産は病気ではなく生理的な変化です。しかし、昭和の時代には、出産は産科病棟という、医師がリーダーとなって助産師に指示をするという形で行われることが多くなりました。出産を病気と同じように扱って、妊産婦さんも医師に出産を任せて自分の意思で産まない状況が生じてきました。出産自体のケアももちろん大事ですが、家族構成員が増えるという文化的な側面が強いため、妊産婦さんも出産の希望を持ち、自分の意思で産むということも大切です。また、産むことの安全性の保障や子どもを産む・・・産まない権利も当然あります。

産科医不足も相まって、厚生労働省から周産期医療システムの見直しをしてはどうかという話が出ました。

そこで、医師はサポートをするけれども、助産師が外来の診察をしたり出産の助けをするという形で、医師と助産師と妊産婦の三者を連携する院内助産システムを日本看護協会や厚生労働科学研究班での研究成果を基に、発案・普及をしました。

助産師外来や院内助産によって、分娩時や母子の健康に問題が出ないかというところもデータをとって調査研究し、問題がないということがわかりました。また、医師だと診察が3分くらいしかできないところ、助産師なら15分から30分ほど時間を取ることができ、満足度も上がりました。

このような研究の結果、厚生労働科学研究費の補助金を得て、私が助産師の代表として、医師の代表とも協力して、院内助産システムを作りました。現在ではこのシステムの普及率は50%になっていて、これが私の人生で一番の財産になっています。

現在休職中の看護師の方にアドバイスを下さい

時代的に、出産・育児をしながら働くのが当たり前という感覚になってきました。この雰囲気は良いことなのではないかと思っています。一方で、社会や病院のシステムが、これを支えられるような仕組みになっていく必要があるとも思っています。

個人の看護師や助産師が出産・育児で仕事を一度完全に離れてしまったら、頭が真っ白になって戻ろうとしたときの不安が大きいかもしれません。

この場合はまず自信を取り戻すために、週1回程度の学習や研修をすると良いでしょう。オンライン学習も増えてきて、育児中でも自宅から気楽に研修に参加できます。また、時短勤務などのチャレンジで復職することもお勧めです。

子どもが高校生や大学生になってきたら、経済的に大変になってきます。一方で、その頃になると子どもは彼らの人生を歩み始めます。あなたは自分のキャリアのために時間を使うことができますし、看護職の免許を持っていることは大きな財産です。あなたはあなたの人生を生きてください。

人生100年時代になっていますから、50代になってもまだまだ働くことができます。あなた自身の人生プランを持つことが大切です。人生いくつになってもチャレンジできるのが看護職の強みです。